自分の隣人を愛せるか

実は旦那様の実家と絶縁して久しい。これは初期の頃、お義父様が一方的に悪くお義母様もそれにならえの状態だったため、修復不可能なまでになってしまった。

しかし、血縁関係は「絶縁」なんて言葉で切れるほど甘くはなく、何かと我慢の日々が続いていた。
中期、本当に常識の通用しないお義父様は完全に息子との間に溝をつくる事件を起こした。
言葉は悪いが、本当に糞爺とはお義父様のためにあるようなものだと思った。

後期、やっと平穏な日々を過ごしていたが、悪い知らせは19日に訪れた。

お義母様が入院・手術となるとの連絡だった。親戚筋でも有名な「絶縁」状態だったが、連絡が入るとなると動かざるをえない。
連絡をよこした親戚の面子もあるからだ。嗚呼、なんてくだらないことだらけなんだろう。
お義母様はまだ少し元気な様子だったが、入院・手術に至るまでの経過を察すれば、悪い結末が待っていそうな内容だ。私はどうすることもできなかった。
少しだけ顔を出して、今までのうちの様子を伝える。こっちも大変な状況なんだよと。
勿論、よい知らせも多くあったけれど。

そしていよいよ翌日が手術日だった。
夕方に誰もいないことが分かっていながら連絡が入る。
勿論いい知らせなわけがあろうはずがない。

私はいったいどうすればいいのか自分を見失ってしまった。
あんなに嫌な思いをして、私の実家まで巻き込んで、旦那様は無関係な弟の尻拭いに奔走し、あげくに「絶縁」とは。そして、数年振りに『何もなかったようなのんきな顔』でお義父様がしでかしたこと。
思い出すだけでぞっとする。

憎んでいた。
赤の他人だと思っていた。
私の血縁ではない、と割り切っていた。

しかし、私は世間で言うお人よしなのだろうか、お義母様に対して憎しみの気持ちがどこかに行ってしまったのだ。

何かしなければ、これは後悔するだろう。
そんな気持ちだけが漠然とあった。

死を目前にしているかもしれない人の耳元で罵声をあげることができない。
それでもお義父様に対してはまだどうしようもないくらいに許すことができないのだ。

そこにひとつの聖句がやってきた。(師匠のサイトで紹介されていたのがきっかけ)

愛は律法を全うします。(ローマ13:10)

これは小さな命を守る会主事の水谷牧師からのコメントでした。
リンクがありますので、小さな命を守る会→水谷先生のBlogへもお願いします。
この会は私も賛同して参加(準会員)しています。

さて、祈りのひとつは聞かれました。
アーメン。

あとは目の前に道が示されるよう引き続き祈ります。